血の池地獄で学ぶ春

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    「一杯で充分ですよ」

    中央線沿線の安居酒屋のカウンター。
    ホッピーを飲んで赤ら顔になり「現地で食べるタイ料理がいかに素晴らしいか」を延々と力説していた俺を諭す様に、冷静な友人はそこはかとなくブレードランナー風味の言葉を投げかけて来た。数年前の、ある寒い冬の日だった。

    馬鹿みたいに当たり前の事を書くが、タイ料理はタイで食べるのが一番美味い。
    日本国内にも今やたくさんのタイ料理店があり、どこに行ってもそれなりに美味しい物を提供してはくれるだろう。
    しかしタイで食うタイ飯はやはり格段に美味い。
    現地の種類豊富かつ鮮度の良いハーブやスパイスの香りは絶品で、それらがふんだんに使用された料理の数々は日本で食べる物とはレベルが違うのだ。
    更に、食べた一口が次の一口を誘うというスパイス&ハーブの食欲増進効果によって、二杯でも三杯でも、いつまでも同じ美味さを味わいながら食べ続ける事が出来るという恐ろしい力すら秘めているのである。

    酔っぱらって調子に乗って、そんなどうでも良い事をいつまでも喋り続ける俺に友人は半ば呆れつつ「適量ってものがあるんですよ。美味しいなって思うその一杯は、美味しいと感じる丁度良い分量だからこそ美味しいんです」などともっともな事を言ったが、ちょっとした例えの部分を突つかれた事がかえって俺をイラつかせた。
    まあ実際のところ、現地で同じ物だけを立て続けに注文して食った記憶など自分でもあまりないのだが、ホッピーが程良く回っていた俺は酔っぱらい特有の偏向的な思考になっており「問題はそこじゃねえ、適量とかうっせえ、美味い物は何杯食っても美味いんだよ!」と雑なまとめ方をして話題を締めくくった。我ながら面倒臭い。こういう手合いの人物とは飲みたく無いなあと客観的に思う。
    しかし実際、現地で食べるタイ料理はどれもこれもすこぶる美味いので「何杯食っても、ずーっと美味い」は、あながち間違ってもいないだろうとは思っていた。


    先日、毎年恒例の避寒の為にタイを訪れていた俺は、新たなるナイスなメシ屋台はないだろうかとチェンマイの街をバイクで走り回りウロウロしていた。
    ふと迷い込んだ小道で、“ลาบ”の文字が視界の端を横切ったので反射的に身体が反応してバイクのブレーキをかけた。

    ゆっくりとしたペースながらも少しずつタイ語の勉強を続けている俺は、近頃ほんの僅かだがタイ文字が読めるようになって来た。
    ・・・などと調子に乗った事を書くと、なんだか語学力自慢をしているかの様に思われてしまうかも知れない。だが言うまでもなくとても自慢出来る様なレベルには程遠く、ほんの一部の文字がなんとか時間をかければ判読出来、いくつかの料理名の表記をようやく憶えた程度という学習初期の初期、実に微々たるレベルである。
    そんな微々の微々、むしろ人に言わない方が良いレベルであるにもかかわらず最近は勝手に勘違いされて、同時期にタイを訪れた友人知人に現地で頼られてしまったりもするので全く持って困り物である。

    異国の地で、俺の様な者なんぞに頼るという事がどんなに危うい事であるか、逆のケースとしてイメージしてみて欲しい。
    日本にとあるタイ人のグループが観光にやって来たとしよう。彼らの中で唯一日本語がわかると思しき人物はグループを率いている太った中年男性ただ一人だけであり、他のメンバーは「彼に任せれば何事も大丈夫」と思い込んでいるので完全に安心し油断している。しかし実は彼が知っている日本語はごくごくわずかな単語だけなのである。

    「白子」「とんかつ」「こてっちゃん」

    つまりこれがタイにおける俺である。こんな人間を異国の地で頼ってはいけない。別に太った中年男性という情報を例えに入れる必要はなかったけれど。

    しかし学習の成果でささやかながらいくつかの料理名を判読出来る様になった俺は、ガイドブックやネット記事頼りの探訪よりも半歩進んだメシ屋探しを始められる様になって来たのも事実ではある。
    大好物のラープという料理のタイ文字表記“ลาบ”が認識出来る様になったので、街中の探訪でラープを看板メニューにしているような店をなんとか自力で見つける事も出来る様になった。

    以前も書いたかも知れないが、ラープというのはミンチ状にした肉をハーブやスパイスそして炒り米などと混ぜた、タイ〜ラオスの広い地域で食されている料理である。
    材料には豚、牛、鶏、魚など様々な肉を使うのだが、日本のタイ料理屋などでも一般的に食べられている火を通したタイプの物とは別に、生肉を使った物も現地では多く食されている。
    この生ラープ、「禁断の味」とでも表現したら良いのだろうか、今や肉の生食が法規制され難しくなってしまった日本人にとっては実に後ろめたい美味さに満ち満ちた料理なのである。
    中でも豚生ラープは最たる物だろう。様々なハーブや香辛料で味付けされた生の豚肉ミンチを口に入れた瞬間、ヌチャリひろがる淫靡なる食感と味わい。間髪入れずにやって来るフレッシュなハーブの香りと唐辛子のビビッドな辛味。それらが調和して口中幸福度が絶頂を迎えた瞬間に氷入りの冷たいビールで一気に押し流しリセットして歓喜の嗚咽と共に一旦の放心。そうこうして余韻を楽しんでいるうちに勝手に身体が動き、再び生肉を口に運んでしまうのである。

    嗚呼、一度その味に取り憑かれた者にとっては、こうして思い出すだけでも涎がジュルリと溢れ出て来てしまう、そんな料理なのである。

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    チェンマイの小道で“ลาบ”の文字を発見し、バイクを急停車させた俺が振り返ると、そこには確かに「ラープほにゃらら」と書かれた看板がそびえていた。
    ほにゃららは判読出来ない部分だ。しかし問題無い。
    逆のケースとしてイメージして貰うと、タイから日本にやって来たとんかつ好きの太った中年男性にとっては仮に「とんかつ蛇人間」という店の看板があったとしてもその前半部分が読めさえすればとりあえずとんかつにはありつく事が出来るのと同じ事だ。蛇人間に関しては語学力がついてから追々じっくり学べば良いのである。

    俺はバイクを少し離れた道端に停めて、店に向かった。
    入口フェンスが閉まっておりあいにく営業中では無かったが、看板を改めて確認するとやはりしっかりと店名の頭に「ラープ」と書かれている。蛇人間部分は判読出来なかったが、店頭にはラープの他に、どちらもまた生肉料理の名前である”サー”、”ルー”の文字と写真が掲げられているのでこの店ではそれらの料理を提供しているであろう事は間違い無い。
    しかも”ルー”というのは俺がここ数年、あちらこちらと探し求めていた料理、「生血のスープ」の事なのであった。
    俺は興奮を抑え切れずブヒブヒと鼻息を荒げながらカメラを取り出し、再びここに戻って来られる様に周辺の風景を含めて丹念に記録した。


    数日後、期待に胸を膨らませて再度訪れてみた。
    店に到着したのは昼過ぎ。先日の訪問時にはガッチリ閉まっていた入口フェンスが今日は開け放たれており、椅子とテーブルも並べられているので営業はしているようだ。しかし誰もいない。
    「すんませーん」
    日本語で声をかけると奥の扉からきったないガチャ目の犬がノソノソと這い出て来てテーブルの脇でゴロリと横になりこちらをぼんやり見上げた。人間は誰も出て来ない。
    生肉料理をメインに扱う飲食店の衛生環境として、日本基準の審査だったら200%通らないであろうそんな店内にしばし立ち尽くし、俺は声をかけ続けた。

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    「さーせーん」
    「こんちゃーす」
    何度目かの呼びかけで、なんとも冴えない感じのおっちゃんが眠そうな顔をして出て来た。
    「え?外国人?」
    おっちゃんの表情からはそんな戸惑いが読み取れた。
    「お前、食えんのか?大丈夫なのか?」と、おっちゃんは無言で問いかけていた。
    俺は壁に貼られたタイ語のメニューを時間をかけて凝視して、判読出来る範囲の料理名をカタコトとも言えないレベルのお粗末なタイ語で連呼してなんとか注文した。
    豚生ラープ、豚焼きラープ、牛生サー、豚生ルー、そしておっちゃんが薦めてくれた何かのヤム。
    外国人は通常あまり踏み込まないであろう領域のセレクションで数品をオーダーすると、さっきまで眠そうだったおっちゃんは仕事をする人間の顔つきになり、薄汚れたエプロンに首を通しながら「うむ」と頷いて厨房へと向かった。

    タタタタタンと時折響いて来る小気味良い包丁の音などを聞きながら氷入りのビールを飲み待っていると、まず現れたるは豚生ラープである。
    生ラープのひとつの傾向として「血が多め」というタイプがあるのだが、大半の店では静脈系の血を使っているのだろうか、ドス黒い色合いの物が多い様に思う。それはそれでコクがあって滋味深い美味さではあるのだが、この店の生ラープは血液多めタイプながら動脈系の見るからに鮮やかな紅色をしている。
    口に入れてみると実にスパイスの香りが立っている。前面に出ているのはクローブだろうか。クニャリとした食感と共に爽やかな芳香を楽しんでいると唐辛子の辛味が後から丁度良い塩梅でやってくる。辛さはタマダー(普通)でお願いしたのだがひょっとしたら外国人という事で若干の手加減をしてくれたのかも知れない。とにかく肉が新鮮な事がはっきりとわかる。おっちゃん、腕は確かだな。


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    続いてやって来た焼きラープも勿論うまい。こちらもクローブ等のスパイスが立っている。
    生ラープ同様に上に散らされた揚げニンニクが香ばしく、実になんともけしからんほどにビールが進むのだ。


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    次に現れたるは牛生肉のサー。
    「サー」とはラープの様に肉をミンチにせず、切り身の状態でハーブやスパイスと和えた物。
    ほどよく効いた胆汁の苦味と、小口切りにされたレモングラスの爽やかな香りがたまらない。
    生牛肉の柔らかさと、生レバーの濃厚さ、センマイのコリコリ食感と、部位の違いが実に楽しく美味しい。

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    そしておっちゃんが薦めてくれたヤムが現れた。
    センマイとタマネギ、レモングラスを塩と柑橘果汁で和えたものだ。
    シャキサククニュコリの多様な食感の合わせ技。さっぱりとした美味さにこれまた思わず唸ってしまう。

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    そうこうしていると遂に登場したるは本日のハイライト。俺が長年探し求めていた料理、豚生ルー。
    豚の生血の冷製スープである。

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    「血の池地獄」
    そんな言葉を思い浮かべてしまう様な、ドンブリ一杯に盛られたド紅色の汁。
    インパクト抜群なそのビジュアルに思わず「おおう」と唸り声をあげてしまう。
    あまりにもたっぷりすぎる生血のそこかしこからは豚の皮を揚げた「ケープムー」や内臓類の欠片が顔を覗かせている。
    付け合わせの薬味には揚げた米麺、コブミカンの葉、そして甘酢の様なタレが添えられている。

    まずは何も薬味を入れずにシンプルに生血スープを一口。予想に反してアタックは柔らかくなめらか。
    ほんのりと感じられる甘味、そしてハーブ、スパイスの爽やかな香り、唐辛子の辛味が順番にやって来る。「生の血」から想像される様な生臭さ、鉄臭さは微塵も無い。目をつぶって飲んだら、血だとは思わないだろう。ひんやりと丁度良く冷やされており口当たりが良く、思わず二口三口と飲み進んでしまう。
    薬味の揚げ麺、揚げコブミカンを投入してみると爽やかさが更にアップ。好みだろうけど甘酢ダレは入れなくても良いかな、と思う。
    何杯でも続けて食べ続けられそうな美味さに夢中になって、俺は生の血を貪り続けた。これである。これなのである。いつぞやの居酒屋で面白みの無い正論を吐いていたあの友人をいますぐここに連れて来てこのスープを食わせたら、新鮮なスパイスとハーブがふんだんに使われた本場のタイ料理には理屈では無い美味さがあるという事実に納得し、ひれ伏すに違いない。
    そんな事を考えながらふと気がつけば口の回りが豚の血でベッタベタにまみれていた。傍から見たらなんとも凄惨な食事風景であろう。

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    しかし冴えないおっちゃんだが、見事な腕前である。
    思わずカタコトのタイ語を全力で駆使して
    「オイシイ、コレ、豚の私ダイスキの物の事、トテモトテモです」と、ありったけの賛辞を送った。
    発音も文法も間違いだらけな俺のタイ語を聞いておっちゃんはキョトンとした表情をしていたがすぐに笑顔になりウンウンと頷いてくれた。

    通じた。今まではただ料理名を連呼してオーダーを通す事が精一杯だったのだが、つたないながらも自分の感じた気持ちを言葉で相手に伝える事が出来、相手はそれを理解して笑顔で返してくれた。
    なんかこう、ようやく日常会話の一歩目を踏み出せた。初めてタイの人と言葉で繋がる事が出来た。そんな記念すべき嬉しさに浸りながら実に良い気分で最後のビールを飲んでいた俺の目の前に、突然ドデンとドンブリが置かれた。
    豚の生血のスープである。

    俺が持てる限りの語学力を駆使して贈った賛辞の言葉はおっちゃんには何ひとつ通じてなどおらず、ただ単におかわりを注文したと思われたようだ。
    ぬか喜びの恥ずかしさで赤ら顔になって、背中を丸めて二杯目の生血をすすりながら俺は思わず呟いた。


    「一杯で充分だな」


    何事にも適量というものがある事をようやく学んだ、そんな40代半ばの春である。

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    Dennis Ivanov

    (デニス・イワノフ)

    日本人。
    グラヒックデジャイナー。
    twitter:Dennis Ivanov

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