川のほとりで馬鹿どもと

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    「メコン川に沈む夕陽を見ながら、ぼんやりとビールを飲みたい」

    そんなざっくりとした思いが頭に浮かんだので、俺はすぐさま航空券を取った。

    バンコク、ドンムアン空港から国内線に乗り込んで一時間。到着したタイ東北部のウドンタニ空港から更にタクシーで一時間。
    辿り着いたのはメコン川を挟んだ対岸にラオスを望む国境の小さな街、ノンカーイ。
    この街で何か肉でもつまみつつ、メコン川と夕陽を眺めながらひとつ冷たいビールを飲んでやろうと言う魂胆だ。
    俺はこの計画を実行するに当たって、最も適していると思われる川沿いに建つ好ロケーションの宿を予約していたのだが、宿のざっくりとした場所しか把握していなかったのでタクシーの運転手にもざっくりとした説明しか出来ず、故によくわからないざっくりとした場所で車から降ろされ、結果当然の様に道に迷った。が、さんざん国内外で迷子の経験値を積んで来た俺である。
    「とりあえず、メコン川沿いに出ればなんとかなるだろう」
    経験値に裏付けられたざっくりとした目論みの元、俺は川へと向かうべく適当に入ってみた細い路地を抜けた。

    路地を抜けると一気にスコンと視界が開け、ユルリと流れる茶色いメコンの流れが目の前に現れた。
    川幅はおよそ500メートルほどだろうか、向こう岸は隣国ラオスである。
    対岸の道をトゥクトゥクや軽トラックが行き交っているのが見える。すぐ先に見えるあそこがもう「別の国」なのだという事実は、日本の様な島国の人間にとって少々不思議な感覚である。
    そんな景色は実に良いのだが、いかんせん暑い。暑過ぎる。真昼の焼き付ける様な鋭い陽光の下、粗い舗装の道の窪みでスーツケースをガッツンガツンバウンドさせながら、水性のデブである俺はビッタビタに滴る汗でナメクジの這い痕の様なラインを道路に描きながら彷徨い歩いた。

    完全に迷子になって川沿いの小道を行ったり来たりしていたら、ふと民家の軒先から大きな毛玉の様な正体不明の汚い生き物が転がり出て来て俺の周囲を走り回りながらワンワンと吠えた。その後ろから眠そうな顔をしたおばちゃんが「こら、吠えるんじゃないよ!」と、恐らくそんな様な事を言いながら毛玉を追って出て来た。
    そして俺の顔を見るなりなにやら早口で話しかけて来た。
    どうやら「アンタ、何やってんだいこんなところで」という様な事を言っているようだ。
    わずかに知っている単語を並べ、発音も文法もメチャクチャな、カタコトにすらなっていないタイ語でなんとか宿の場所を聞いてみる。
    「ああ、その宿ならこのすぐ先だよ」
    異国を旅しているとままある事だが、言葉はわからないのに何故だかおばちゃんの言っている事がわかった。
    「ありがとありがとコープンカップ!」日本語タイ語チャンポンの礼を言い、相変わらず吠え続けている毛玉に「じゃ、またな」と声をかけ、俺はおばちゃんに教わった方角に向かって再びスーツケースをバウンドさせながら歩き出した。
    それにしても暑い。時刻は正午過ぎ。一日の中でも最も暑い時間帯だ。そんな中を重いスーツケースをガラガラと引きずり歩いてクタクタの俺に向かって、またしても二匹の犬が茂みから飛び出て来てギャンギャンと吠えたてた。
    その後ろから現れて「アーコッチコッチ!ヨウコソヨウコソ!」と、カタコトの日本語で迎えてくれたおじさんは、宿のオーナーのピリヤさん。
    年の頃は50代後半くらいだろうか。白髪混じりの角刈り頭でがっちりとした体格の優し気なおじさんである。
    遠慮する俺からスーツケースをむんずと奪うとそれをヨイショとかついで2階の客室へと続く外階段を登り、部屋へ案内してくれた。
    「ココ、アナタノヘヤ!」
    「コレ、エアコン!」
    「テレビ!」
    「シャワー!」
    「レイゾウコ!」
    いちいち部屋にある物を一つ一つ指差し確認しながら説明してくれる、ちょっとどうかと思うほどに親切なおじさんだ。
    荷解きもソコソコに、早速教わったばかりの「シャワー!」を浴びてサッパリする事にしたのだが、湯沸かし器が作動せず、シャワーからは水しか出なかった。
    なるほど、どうりで「ユワカシキ!」とは説明しなかった訳だ。
    しかしまあ問題無い。暑い南国では水シャワーで充分快適だ。
    着替えを終え、大きな窓のカーテンを開けると目の前はメコン川。向こう岸のラオスの街がよく見える、最高の眺望の部屋だ。
    外階段を降りて宿のテラスに行くと、ピリヤさんが黒いマウンテンバイクを自慢気に指差して言った。「ジテンシャ!」。
    ピリヤさんの背後では宿の二匹の番犬が相変わらずガウガウとこちらに向けて牙を剥いている。
    俺は早速「ジテンシャ!」を拝借して街を散策しに出かける事にした。後ろでは犬達がいつまでも吠え続けていた。

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    油が足りていないのか、キョエキョエキョキョキョと妙な音を立てるマウンテンバイクをゆっくりと漕ぎながら、初めて訪れた地の風景を楽しむ。
    そこかしこの日陰で地元の人が座り、または寝そべり、午後のトロリとした時間を何をするでも無くボンヤリと過ごしていた。
    ああ、アジアだなあと思う。俺の大好きな、実に心地良くだらしない風景だ。
    しばらく走って、国道脇の小道に入ってしばらく進むと、生い茂る木々の向こうに異様な仏像が見えて来た。
    今回ノンカーイの街を選んだもう一つの目的、「ワット・ケークー」である。

    昨年、ラオスのビエンチャン郊外にある「ブッダパーク」という名所、というか「迷所」を訪れた。
    そこは仏教とヒンドゥー教に傾倒したとある僧侶が作ったという地獄と天国を表現した大小様々な仏像や仏塔が雑然と配置されている場所なのだが、そのどれもこれもがちょっとどうかと思う様な奇妙な代物で「楽しい悪夢」とでも表現したら良いのか、実に不思議な面白い空間だった。昨夏にそこを個人旅行で訪れて衝撃を受けたその夜、栗コーダーカルテットというバンドのメンバーから連絡を頂いて秋の東南アジアツアーへの帯同が決定し、2ヶ月後には再び同じ場所を訪れていたという奇妙な縁もあったので思い入れも深い。
    このノンカーイの街にあるワット・ケークーはそのブッダパークの兄弟寺とされており、ブッダパークを作った後に政治的な理由でラオスを追われた僧侶がタイに亡命し、対岸のこの街で同じ様な仏像群を作ったのがこの場所なのだそうだ。
    ブッダパークに負けず劣らず奇妙な仏像群が雑然と配置されたここはまさに「異世界」という表現がぴったりだった。
    恐ろしく不気味なのだが、何故か居心地が良くて、不思議と帰りたく無いのである。
    もしも死後の世界というものがあるのなら、ちょっと奇妙で楽し気な、こんな感じの場所だったらいいなと思う。

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    帰り道、汗だくになって自転車を漕いでいたら市場の前を通りかかった。
    俺はすぐさま自転車を道端に停めて市場を見物しに入った。
    世界のどこへ行っても楽しいのが市場とスーパーマーケットである。
    特に市場は地元の人々の生活に直結しており、ローカルな珍しい食い物に出会える確率がテキメンに高いので俺は旅先では出来る限り市場を回るようにしている。
    様々な惣菜、ハーブ、スパイスそして肉、魚、野菜などの生鮮食品がズラリ並んだ場内は雨季の高湿度も相まってムワッと濃厚な臭気と人々の活気に満ちていた。
    一通り冷やかした後、入口近くの一軒の店の前で俺は足を止めた。
    その店ではおばちゃんが鶏のレバーを竹串に刺して炭火で炙って売っていた。
    大ぶりのレバーははち切れんばかりの見るからにブリブリした質感で、炙られ滲み出て滴った肉汁が炭火に落ちてはジュジュウと音を立てていた。
    俺はゴクリとつばを呑み込みつつそいつを買い求めて、慌てて自転車にまたがった。
    時は夕刻。ウカウカしていたら「メコン川に沈む夕陽を見ながらビールを飲む」という目的が達成出来ないからだ。
    続いて通りがかりに見つけた酒屋の前で急ブレーキをかけて停車し、店内に駆け込んだ。
    店に入ると通路の真ん中で猫が上半身と下半身を正反対の方向にグニャリとねじった不思議な体勢でグーグー寝ていた。
    そいつをひょいとまたいで冷蔵ケースの前に駆け寄り、各種ビールを物色。
    毎度お馴染みチャーンやシンハー、レオといったタイのメジャー銘柄に並んでラオスの「ビアラオ」も並んでいる。
    ここはひとつ、対岸のラオスを眺めながらのビアラオと洒落込む事にした。
    全く起きる気配の無いねじれ猫を再び飛び越えて、俺は急いで店を後にした。
    キュキョキョギョエーと車体のどこから出ているんだかよくわからない音を立てながら宿の中庭に自転車で滑り込み、ビールとレバー串を持って慌てて目の前のメコン川のほとりへと走り出ると、そこにはハッとするような夕焼け空が広がっていた。
    俺は思わず30秒ほど硬直し、あまりにも美しい夕陽に柄にも無く感動して見入ってしまった。
    おっとっとと我に返り、手に下げたビニール袋からビアラオの瓶を取り出し、カバンに入れておいた栓抜きでプシッと栓を抜いてググーッとラッパ飲みで流し込んだ。汗だくで走り回って乾ききった身体に冷たいビールがキュイーッと染み込み、美味さのあまりに思わずちょっと涙が出た。
    間髪入れず、先ほど市場で買った串を取り出す。レバー串のてっぺんにはハツ、つまり心臓が何かの象徴の如く鎮座ましましている。
    神々しさすら感じさせられる様な夕陽を前に動物の心臓と肝など掲げていると、なにやら古代の生贄の儀式を執り行っているかの様な厳かな気持ちになった。
    俺は先ず、てっぺんの心臓を一口でカプリと口に入れた。
    プリリと弾力のあるその艶やかな表面にブスリと歯を入れると、チュワリと旨汁が染み出て来る。
    常に動き続けていた心臓の筋肉ならではのプツプツと弾力のある歯ごたえ、周囲に絡み付いている脂身、地味溢れ塩味の効いたその味わいは甘めのビアラオと絶妙なマッチングである。
    思わずンググとビールを一気に流し込み一旦口中をリセット、お次はいよいよレバーをガブリ。
    程よく脂肪分の乗ったレバーの焼き加減は絶妙で、あたかもフォアグラを食べているかの様なトロリと濃厚な味わいのプリン体が口一杯に広がり、
    「この旨さを味わうためなら、痛風もやむなし」
    そんな勢い任せの決意すらうっかり頭をよぎってしまう。そしてこれもまた言うまでもなくビールと良く合う。
    レバー、ビール、レバー、ビールのローテーションでうっとりとしていたらふと足下からハッハッハッと荒い息づかいが聴こえて来たので下を見てみると、出かける時にギャンギャン吠えていた宿の二匹の犬どもが俺の足下でお座りの体勢を取り、ヨダレをダラダラ垂らしながら羨ましそうに見上げていた。
    こいつらに少々の肉片を放り投げて与える事は簡単だが、犬にこんなに塩気の強い食い物を与えてはいけないだろう。こいつらの健康を鑑みて、心を鬼にして一切餌は与えない事にした。
    「悪いが、これはあげないよ」
    言葉はわからないだろうが思いは通じた様で、犬達は心無しか悲しそうな表情になってヒィィと鼻先で啼いたが俺はそのまま奴らの目を見ながらでレバー串をベロリと完食してやり、二匹の犬を絶望の淵へと追いやった。
    その後、ビールを飲みながら日が沈んで行くのを、川の堤防の上に座ってただただぼんやりと眺めていた。
    気がつけばあたりはとっぷりと暗くなっており、振り返ると絶望した犬どもが俺の背後でゴロリとフテ寝している。
    さて宿に戻ろうかと俺が立ち上がると、2匹もビクリと起きあがり、歩く俺の後ろをトボトボとついて来た。最早、数時間前に出会った時の獰猛さは微塵も感じない。
    部屋へと続く外階段の前でワシワシと撫でてやり「まあ、そんなにションボリするな」と励ましてやると、情けない顔をして2、3度尻尾を振った。
    「じゃ、またな」
    俺は階段を登って部屋に戻りザザッと冷水シャワーを浴びた。

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    シャワーの後、しばし休憩しようかとも思ったのだが先ほどのレバー串で食欲に勢いがついてしまった。腹具合に素直に従い、このまますぐに本格的な晩メシへと繰り出すことにした。
    ガイドブックの情報に従って「ノンカーイの街で最も賑やかな通り」だという場所に行ってみると、そこはびっくりするような地味で薄暗い通りであった。
    道路沿いに数軒の食堂と屋台があるだけの、重ね重ねなんとも地味な地味〜な場所である。
    その中の一軒、比較的客が入っている食堂の店先に並べられたテーブルに座ると、タイではさほど珍しくは無い「お姉さんになってからまだ日が浅い思われるお兄さん」がメニューを持って来てくれた。
    しばし悩んだ後、豚のラープ、キノコと野菜の和え物、アヒル肉の炒め物、そしてカオニャオを注文し、料理が出来上がるまでは氷入りのビールを飲んで待った。
    程なくして最初に運ばれて来たのはキノコの和え物。フクロタケと様々な野菜が軽く油通しされてチャチャッと和えられた物なのだが、こちらでは新鮮なフクロタケが食べられるのが嬉しい。
    日本で食べるフクロタケは殆どが水煮の缶詰である。これは生のフクロタケは非常に痛みが早い事が理由だそうで、なんでも収穫して1〜2日で食べ切ってしまわないとキノコは自らが出す消化酵素によって自己分解して消えてしまうのだそうだ。汚く不衛生な状態をキープして長らく生活していると風呂の天井や流しのタワシなどから生えてくる「ヒトヨタケ」も同じく消化酵素で自己分解してしまうので、俺と同じく掃除嫌いの皆さんにはイメージしやすいかも知れない。
    そんな新鮮なフクロタケをふんだんに使ったこの料理は日本で食べる水煮缶とはまるで別の食べ物のようだ。
    カプリと噛むとキノコの旨味と香りがしっかりとわかる。味、香り、食感、全てが違うのである。
    続いてやって来たのはアヒル肉の炒め物。
    アヒル肉は鶏に比べて濃厚な味わいである。魚で言えば白身と血合いのような違いだろうか。
    こいつを少々の甘味があるトロリとしたタレにチョイと付けて口に運ぶと、ビールとの相性の良さに思わず「ムグゥ」と変な声が出てしまうほどである。
    そして満を持して現れたるは俺の大好物、ラープ・ムー。豚のラープだ。焼いた豚のミンチを炒り米や野菜、ミント等と和えてナンプラーなどで味を付けたラオスやタイ東北部の代表的な料理である。
    カオニャオという蒸した熱々の餅米を指先で一口大ほどの大きさに丸めて軽くくぼみを作り、そのまま指先を隣の皿に移動させてくぼみにラープをちょいと嵌み込んで口に入れる。
    「ンマ〜イ!」と、藤子不二雄Aの漫画で表現される様な歓喜の声を漏らしてしまう。

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    キノコ、ビール、アヒル、ビール、豚&餅米、そしてビールというローテーションで夢中で飲み食いして腹が満たされたので会計を済ませ、腹ごなしに散歩して帰る事にした。
    先ほどの地味な通りが「最も賑やか」だと言うのなら、他の通りは一体どんな感じなのだろうか見てやろうという興味が沸いてきたので、暗い通りを数本歩いて回った後に商店街のアーケードに行ってみた。
    アーケードはシャッターの閉まった店舗が彼方まで続き、誰一人として通る人もいない寒々しい風景だった。まだ夜の9時前だというのに何という本日終了感。
    地味で寂しい夜の街は充分堪能したので、川沿いを散歩して宿に戻る事にした。

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    川の流れる音、虫やカエルの鳴き声、対岸のラオスの街で鳴く犬の声などを聞きながら歩く夜道は実に気持ちが良く平和そのもので、ゆるりと涼しい川風を受けながらの散歩はいつまででも歩いて行きたくなるような心地よさだった。
    そろそろ宿に着こうかという時、茂みの向こうからガサガサと音がして、黒い影がこちらに向かって来たので俺は思わず身構えた。
    影は二手に分かれ、俺の周囲をハッハッハッと荒い息づかいをしながら尻尾を振って走り回った。
    宿の番犬どもである。「わかったわかった、まあ落ち着け」なだめてワシワシと撫でてやると嬉しそうにゴシゴシと身体を擦り寄せて来る。
    昼間に初めて会った時にはあんなに吠えていたのに、何故だかわからないがいつのまにかすっかり懐いたようだ。
    撫でながら俺は、ふと実家で飼っている犬の事を思い出していた。
    俺は実家には年に一度、元旦の晩にしか帰らない。
    10数年前から飼っている犬は、毎年帰省する度に俺の事を不審な侵入者と認識してギャンギャンと狂った様に吠える。
    ギャンギャン吠えるのだが、とりあえずジャーキーの1本も放り与えてワシワシと撫でてやればものの1分でゴロリとひっくり返って腹を見せ、すっかり俺に完全服従でされるがまま、言われるがままだ。
    「お手!」ゴロリと腹を見せる。
    「ハウス!」ゴロリと腹を見せる。
    「おすわり!」ゴロリと腹を見せる。
    まあ、しつけの不十分な犬ではあるのだが、なにかと腹を見せるのは生物としてもいささか無防備過ぎるのではなかろうか。そんな少々馬鹿なところが俺は好きではあるのだが、番犬としてはどうなのか。一応吠えるだけマシだとは思うが。
    そんなこんなで帰省する度に腹を中心にたっぷりと遊んでやり、翌日俺が帰京する際にはクゥ〜ンクゥ〜ンとわかりやすく寂しそうな声を出す。
    まあこの馬鹿犬はどうせ次の帰省時にはまた全てリセットされて牙を剥いてギャンギャン吠えるとわかっているのだが可愛い馬鹿だ。
    そんな実家の馬鹿犬を思い出しながら、遠く離れた異国の地でワシワシと他の犬を撫でていた。

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    翌日も良い天気だった。
    昨日は自転車で回ったが、やはり初めての街は歩いて回らねば気が済まないしサイズ感もわからない。この日はとにかく街を歩き倒してやる事にした。
    主要な寺を回り市場を回り、茂みでツノゼミを探したりして歩き回っているうちに時間が過ぎて行った。
    東南アジアの寺ではたいてい半野良の犬がそこかしこでゴロゴロしている物だが、ノンカーイの街の寺とてもちろん例外ではない。
    やはりちょっと汚くて不細工な犬達が境内の風通しの良い日陰でグースカ昼寝をしていた。
    基本的に犬は警戒心が強く臆病で、こちらが少しでも近づこう物なら慌てて逃げたり吠えたりするものなのだが、珍しくこちらに興味津々の眼差しを送って来る一匹が居る。
    「いぬ、いーぬいぬ、いぬ」名前を知らないので適当に呼んでみたら尻尾を振りながら走り寄って来た。
    ワシワシと撫でてやると嬉しそうに目を細めてくっついて来た。少々臭うが可愛い奴だ。
    ひとしきり遊んだ後、「じゃ、またな」と声を掛けて寺を後にした。

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    とっぷりと日が暮れて今宵はノンカーイ滞在最後の夜。俺はなかなか寝付けなかったのでビールを片手に部屋から出て、川のほとりに出た。
    宿に泊まっているのは俺一人、オーナーのピリヤさん含めスタッフは全員帰ってしまっているので、俺と二匹の犬だけの夜だ。
    辺りは真っ暗で、宿の入口にある小さな蛍光灯だけがかすかに周囲を照らしていた。
    ゆっくりと歩いていると背後からパタパタパタと小さな足音が聞こえる。
    振り返ると、暗闇の中で二匹の犬が俺の後に着いて来ていた。
    獣どもを従えて川沿いの道を歩き、6段ほどの小さな階段を登り堤防の上に立った。
    厚い雲に阻まれて月が見えない真っ暗な夜の闇の中、メコン川の水音が静かに響いていた。
    堤防の上にベタリと座り、ビールを飲む。対岸のラオスの街で、トゥクトゥクがかなりのスピードを出して川沿いの道路を走って行くのが見える。
    傍の従者達は俺の横にベタリと寝そべり、こちらを見上げている。
    なんだか平和な夜だ。まるで実家に帰った元旦の夜、何もやる事が無いので犬を連れて海沿いの道に散歩に出て、深夜の漁港で缶コーヒーを飲みながらぼんやりしている時の様だ。
    俺の中で真冬の実家の夜と真夏の異国の夜がリンクして、なにやら不思議な気持ちになった。

    ビールを飲み干し、俺は部屋に戻ることにした。
    犬達は部屋に上がる外階段の下まで着いて来て、俺を見上げながら尻尾を振っていた。
    「はい、おやすみ。また明日」
    俺は部屋のドアを閉めてベッドにごろりと横になった。
    程なくして天井がボツボツボツと音を立て始めた。雨だ。
    雨音は徐々に強くなって行き、やがて激しいスコールがやって来た。
    ドドドドドと滝の様に天井を打つ強い雨音を聞きながら俺はトロトロと眠りに落ちた。

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    翌朝、目覚めると相も変わらず天井はドドドドと激しい雨音を立てていた。
    昼の飛行機でバンコクに戻る予定だった俺は少々気が重くなった。
    ウドンタニ空港へ向かうバスの発着所まで宿から歩いて15分。重いリュックサックとスーツケースを引きずって豪雨の中歩くのは大変だろう。
    仕方無くタクシーを呼んでもらいがてら、早めにチェックアウトしようと外階段を下りて1階に降りると、ピリヤさんが慌てて建物から走り出て来て、荷物を持ってロビーに入れてくれた。
    タクシーを呼んでくれと頼んだら、「ダイジョウブ、ワタシ、クルマデオクル!」と有難い事を言ってくれるではないか。どこまでも親切なおじさんだ。
    乗車予定のバスの時刻を告げると、「マダ、ジカンアル!オチャ!ノム!」と、問答無用とばかりお茶とお菓子をズズイと目の前に出してくれたので、豪雨に煙るメコン川を眺めながら二人並んでお茶を飲んだ。
    その後、若かりし頃のピリヤさんがポーズを決めて写っているスナップ写真を見せられて反応に困ったりしていたら、突然上半身裸の男が目の前の川からザブザブと上がって来て、ピリヤさんが何事か大声で男に向かって叫んだ。
    密入国者の侵入かと俺は思わず身構えたが、男は手に持った網を笑顔で掲げた後、地面にドサリと放り投げた。
    網の中では大きな魚が何尾もバシャバシャと跳ね回っている。
    ピリヤさんは笑顔になり、恐らく「大漁だな!」といった様な事を叫ぶと男はフフンと自慢気な表情になり、魚がたくさん入った網を引きずりながら去って行った。
    「ソロソロイキマショウ」
    ピリヤさんが立ち上がり、中庭の車に乗り込んでエンジンをかけた。
    俺は後部座席のドアを開けてスーツケースを積み込みながら、あたりをキョロキョロと見回してみた。
    あの二匹の犬達に別れの挨拶をしたかったのだ。
    「犬は?」
    と聞くと、ピリヤさんは裏手の方を指差した。
    猛烈な雨を怖がって、犬共は建物裏の小屋に籠っているようだ。
    せっかく仲良くなったのに別れを告げる事が出来ないのはちょっと寂しいが仕方無い、心の中で「じゃ、またな」と声を掛け、俺は助手席に乗り込んだ。
    激しい雨がフロントガラスに打ち付けロクに前も見えない中、ゆっくりと車は走り出した。
    ここで犬達がドシャ降りの中に現れて車を追いかけて来たりでもしたら安っぽく劇的なのだろうが、もちろん奴らは小屋に閉じこもっていて出て来る気配はこれっぽっちもない。
    「カンキニナッタラ、アメフラナイノデ、マタキテクダサイ」
    バス発着所へと向かう車中、ピリヤさんは何度も言った。
    「必ずまた来ます」
    次回、あの犬達は俺の事を憶えているだろうか。
    おそらく俺の事などすっかり忘れて、また宿の玄関でギャンギャン吠えるのだろう。
    でもきっと、ものの1分もすればまたすっかり懐いて俺の後ろを着いてきてくれるのだろう。実家の馬鹿犬と同じ様に。
    バス発着所でピリヤさんと握手をして分かれ、ウドンタニ空港へと向かうバスに乗り込んだ。
    相も変わらず激しい雨の中を走るバスの中、俺は実家の犬を思い出していた。
    来年の元旦も、あのギャンギャン吠える声で俺は迎えられるのだろうな。と。


    俺がノンカーイの街で犬どもと戯れていた丁度同じ頃、実家の犬が息をひきとって14年の少し短い犬生を終えていたという事を知ったのは、その後帰国して半月ほど経ってからだった。
    全ての生き物はいつか死ぬ。寂しいが仕方無い。
    もしも死後の世界というものがあるのなら、あいつは今頃あの奇妙で楽し気な世界で遊び回っている事だろう。そしていずれ、きっと俺も合流出来るのだろう。
    そう考えると、ほんのちょっとだけど寂しさが薄れる様な気がする。
    おつかれさん。

    じゃ、またな。


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    Dennis Ivanov

    (デニス・イワノフ)

    日本人。
    グラヒックデジャイナー。
    twitter:Dennis Ivanov

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